フリーキック
高浜FC 故大林利達

『はじめに』
 歴史は繰り返すと言うけれど正にそうだなと思ったのは、平成5年にトップチームを発足させた時だった。その5〜6年前になると思うが芝田や深谷(信)らのOBが集まりボールを蹴りだした。それは木曜日の中学生部の練習終了後のことで、少しずつ人数が増えやがて定期的になった。
 木曜日には集まるがそれぞれの所属チームは別々、という形が数年つづき、市内の小学校に赴任した門脇が参加する頃になると「また一緒にやろう」という機運が高まり、知人、友人を募り協会登録の運びとなった。
 
 そもそも高浜FCはそのスタートが「高浜クラブ」の選手であった者達が、いつしかコーチになっていったという経緯があったし、OBは協会登録以前からクラブの活動に協力的で、事があれば駆けつけてくれていた。
 現在もトップチームの選手の何人かはコーチ兼任で少年たちの指導をしてくれている。同じことを同じ様に繰り返し、高浜FCというのはこうして永遠に続くのだなと思った。

『再びサッカーに』
 自宅から徒歩で高浜港駅へ向かう途中目の前に車が止まった。と思ったら「久しぶりだなぁ」と声を掛けられた。
中学時代にチームメイトだった野々山田人だった。(現高浜サッカー育成父母の会会長)
「毎週日曜日に高中のグラウンドでボールを蹴っているからよかったら来いよ」と誘ってくれた。よく知った何人かの名前を上げ「みんな来ているから」と言った。
何年かの間サッカーとは無縁の生活だったが再びサッカーの現場へ戻ることになった。
 もう23年も前のことでそれが今日まで至るのはあの日、あの時から始まったのだった。まさかコーチになろうとは、まさかこれほど長く続けることになるとはその時は夢にも思わなかった。

『少年サッカー』
 「高浜クラブ」のメンバーにと誘われてグラウンドへ出掛け、懐かしい顔ぶれとボールを蹴るのは楽しく、毎週日曜日はグラウンドへという生活が始まった。
 グラウンドにはサッカースクールの少年たちがたくさんいた。たまには少年たちにボールの蹴り方や止め方などをアドバイスすることはあっても、コーチというには程遠く、ほとんどの者が社会人チーム「高浜クラブ」の選手という気持ちだった。実際この頃は「高浜クラブ」として県外へも出掛けたり大会にも参加していた。
 少年たちの試合の時は引率やお手伝いはしたが、大原氏他の数名を除けばコーチとしての自覚は余り無かった。ただ年齢的に近い者が多かったせいか選手としてプレーするのがきつくなったのも同じ頃で「高浜クラブ」の多くが5〜6年後には選手としての興味より、コーチとしての興味のほうが上回ってきた様に思う。
 個人的には、当時のコーチたちへの不満というのでなく、少年たちへの指導を初めて見た時感じた「少年サッカーのコーチってこれで良いのか?」という疑問があり、漠然と「少年サッカーの指導は大人と同じでいいのか?」と思っていた。
 疑問はあったがどうすれば良いのか分からなかった。誰も知らなかったし、教えてくれる人もいなかった。アシスタントコーチの様な事をしながらもその疑問は残った。


『枚方FCと近江先生』
 そんな頃機会があって枚方FCの小学生のゲームを見る機会があった。
まだ見る目が無かったので枚方FCのゲームは疑問の解消にはならなかった。ある雑誌に枚方FCの指導者の書いた「少年サッカーの指導」が連載されて、それを指導に取り入れると言ったコーチもいたが、それを見ても「今までと変わらない」と感じ、結局雑誌は読まなかった。その後枚方FCである会の催しがありクラブのコーチが数名参加し、帰着後その感想を聞いた。
 杉浦巧(豊田市在住当時の高浜FCのスタッフ)は「近江先生(枚方FC代表、連載記事の筆者)のやり方を真似する前に子供たちへの接し方を学ぶべき」と言い、内藤秀美(故人、小学部コーチ内藤文彦の兄)は「クラブ組織で長期的展望に立ち一貫して指導すべき」と言った。二つの意見に心を動かされ、遅まきながら雑誌に連載された近江達著の「新サッカーノート」を読んだ。
 目から鱗が落ちるとはこの事かと思った。少年サッカーの指導の在り方に対する長い間の疑問が泡の様に消えて言った。その瞬間、アシスタントでは無く学年を担当するコーチをしようと思った。昭和52年の新学期から小学5、6年生のBチームを、夏以前にはA、Bとも担当するようになった。現場の大変さはあったが疑問や不安は感じなかった。
ただ自分がコーチとして上手くなりたいとだけ思った。枚方FCや交野FCとの交流が始まり、その度に近江先生や交野FCの中村福市氏に多くを教わった。正に手とり足取りと言った感じで、実際の練習メニューやアドバイスの仕方まで、あらゆる事をご指導いただいた。中村氏に短時間だが、チームを指導して貰える機会があったり、交流の度に「また少し良くなりましたね」という近江先生の言葉にはいつも勇気づけられた。

『至福の時』
 高浜FCは昭和54年に中学生部を発足させたが、その中学生部の一期生が小学5年生の時その学年担当コーチになった。新米コーチがどうにか一年過ごし彼らが6年生の時の一年は本当に楽しかった。その後中学、ユースのコーチとして様々な感動や体験をするが、この1年間の楽しさは格別であった。
 練習プランを立て、選手に提供し彼らの習得度を見てまたプランを立てた。当時の練習は土、日の週2回だったが練習日が待ち遠しかった。
 コーチとしてやって行けそうだと自信を与えてくれ、コーチとしての喜びを教えてくれたのも彼らで、今日までコーチとしてやって来られたのは彼らのおかげである。彼らは私の選手であったが、私の師でもあった。

『ヒデミのこと』 
 内藤秀美の「クラブ組織で一貫指導」というのがいつも頭にあった。ヒデミは5才年下の好青年だった。版画家になるという夢を持ち、その為にイタリアに勉強に行くという計画を立て、高校卒業後はアルバイトで旅費を稼いでいた。気が合ったのでよく話した。
 いよいよイタリア行きが間近かというある日、繰り言だと思ったが、つい「残って一緒にやろう」と言ってしまった。
 
しばらく間があって「そうもしたいけれどイタリアへ行って版画の勉強をするというのは前からの夢だから」と言った。つまらないことを言ってしまったと後悔した。
 イタリアへ行ったヒデミはクラブのコーチに時々便りをくれた。元気でやっているものだとばかり思っていた。数年後すっかり痩せて病魔に犯されたヒデミが帰国した。妹さんに連れられて一度だけグラウンドに顔を出してくれた。高浜FCはもう中学生部を始めていた。 「小学生から持ち上がったクラブチームだ」だと言ったら嬉しそうに笑ってくれた。
もう一度だけ会う機会があったがそれが最後だった。

『高浜カップ』
 門脇、芝田らが小学校を卒業という年、高浜FCの総意として中学生部を発足させた。
11人に満たない9人でのスタートを担当コーチとして持ち上がった。
 クラブチーム所属の中学生、高校生を認知しようとしなかった時代である。今となっては昔の話しと言ってしまえるけれど辛いこともあった。
いろんな所でいろんな人にいろいろ言われた。多分そうした厳しさは大なり小なり日本全国同じだっただろう。
 クラブに所属しているということで必要以上に「ひもじい思い」はさせたくないと思った。高浜FCだけで無くクラブで頑張っている子たちに何かして上げたいと思い、多くの方の協力や助言をいただいて、「高浜クラブ杯全国中学生大会」始めた。
 回を重ねるごとに盛況になり、クラブチームの中学生の為のチャンピオンシップとして「高浜カップ」の名で親しまれた。
 この時代のクラブ所属の中学生にとっていい目標になったと思う。後にJリーグが開幕するが高浜FCカップに出場していた選手も多く、三浦知良(城内−ベルディ)北沢毅(読売−ベルディ)藤吉信次(読売−ベルディ)菊原志郎(読売−レッズ)山口敏弘(高槻松原−ガンバ)中村忠(読売−ベルディ)などの活躍ぶりを見るにつけ、この時代に高浜カップを開催したことの意義を感じる。いくつかの好試合と記憶に残る選手も多い。
 多くの優れた指導者とも巡り合ったことは有形無形で高浜FCの財産となった。
 
『いくつかの勝利』
 純粋にコーチに専念することの楽しさから、中学生部を担当するようになってから「育てながら戦う」という経験を強いられるようになった。
 この年代のコーチの難しさはよく言われることである。精神的にもデリケートだし、大人でも子供でない微妙な年代である。サッカー選手としても重要な年代である事は言うまでもない。勝つことの意義は十分承知しているつもりだが、勝つことだけにこだわることはしなかった。勝利至上主義になって選手の心身のバランスを壊すようなことはしたくなかった。「技術やアイディアに不自然さのない選手による自由自在なサッカー」を目指してきた。近江先生の言われる「出来るだけ自由度を高く」は、小学生の担当コーチになった時からずっと守ってきたつもりだし、これからもそうしたいと思う。
 どんな試合も選手とコーチの私で我々流のベストは尽くしてきた。敗北もしたが「不自然さのない勝利」をいくつか掴んだ。

 昭和63年愛知県中学生選手権の準決勝で高浜FCはPK戦に破れ決勝戦に進出出来なかった。中村(早大4年)を中心とした、体格や体力は見劣りするが好チームだった。
思えば対戦チームは始めから引き分けPK戦狙いだった。我々は技術やアイディアを駆使しひたすら攻めたが、優秀なGKを擁する相手チームに破れた。試合の出来そのものは悪くなかったので、負惜しみでなく我々のやり方は間違いなかったと確信していた。
しかし、我々の流儀で勝てなかったことには大いに悔いが残った。
観戦していたあるチーム監督から「監督がロマンティストだから勝てなかった。ロマンティックにやるだけじゃ勝てない」と言われた。
 次の年クラブ、学校の枠を取り払った中学生年代のチャンピオンシップである「高円宮杯 全日本ジュニアユース選手権」が開催される事になった。東海地区の出場枠は二つである。東海大会に進出する愛知県代表の決定方法は現在と違いクラブ、中学校の上位2チームによるトーナメントであった。クラブ第一代表として出場し辛勝ながら愛知県代表となった。東海大会をクリアーし全国大会の出場権を獲得した時「ロマンティックにやって勝った」と思った。3年生が4人、平均年齢も体格もスピードもどのチームよりも見劣りがした。それでも我々は「不自然さのないサッカー」で勝てた。多分勝つことだけにこだわって変に鍛えたり、必要以上にシステマチックにやったら勝てなかっだろうと思う。
 ごく普通の身体能力の子でもバランスよく育てばここまでやれるというコーチとしての自信も持てた。

『ユース』
 平成3年4月ユース部門を発足させた。
ジュニアユースと比べると各選手権の出場枠が小さく我々のような町のクラブは厳しい。発足初年度の出場枠は東海、関西地区とも一つ。東海2位と関西2,3位による第3代表決定戦に東海地区2位として進出した。土曜日の授業終了後新幹線で神戸に行き、ナイトゲームで神戸FCと対戦し3−0で勝った。翌日は交野FCと対戦というハードスケジュールで、交野FC戦は不運なハンドによるPKが決勝点となり1−2と惜敗した。
 結成間もない1年生チームとしては上出来であった。翌年は新生グランパスに翌々年は愛知FCにいずれも終了直前までリードしながら追いつかれPK戦で破れるという不運が続いた。今季は愛知FCを下し東海大会に進出しながら、試合前週にエース石川が負傷し不本意な敗退となった。
 Jクラブユースは今後ますます選手が集まり強化されるのは間違いないだろう。
町のクラブとして存在の意義を自ら顧みて充実を計りたい。

『代表のこと』
 基本的に代表との関係は「おまえが熟考したなら好きなようにやれ、後は俺がなんとかする」である。「ああしたい、こうしたい」と代表にいって「駄目だ」といわれた覚えがない。信用されているという自負は勿論あるし信頼に答えたいと常に思っている。
 サッカーに限らず、功なり名をとげたりすると新しいことに批判的であったり、あるレベルまで達したりすると妙に押付けがましい人物がいたりする。野々山正人という人はそういう事とは無縁である。高浜FCのスタッフに若い人が多いのは、代表の若い人や新しいことに批評はしても、少なくとも批判的では無いこうした精神に寄るものだと思う。
 成績についても批判されたことは一度もない。ただ何かの大会で優勝したりすると手放しで喜んでくれる。
代表とは常に「最強コンビ」を自負しているが、かつてスタッフに時として「最悪コンビ」とか「大迷惑コンビ」と言われたことがある。
 もう15年も前の古い話しだが、当時の小学6年生が愛知県大会の決勝に進出した。
ところが担当の角谷が所用で参加出来ず代理監督をする事になった。
代表自ら選手の移動のマイクロバスを運転した。代理監督だったがチームのことは把握していた。ただ相手のチームについては何も知らなかった。
 特別な事は言わず特別な事もせず普通にやって開始早々先取点を上げた。時間の経過とともに相手はとんでもない強豪と分かってきた。どうりで角谷が相手チームについて余り語りたがらなかったわけだ。とにかく我々「最強コンビ」はその決勝戦を勝った。
 選手を無事送り届け後は祝宴である。二人でスタートしたが誰彼かまわず呼び出し、所用のすんだ角谷も呼び出し、結局その夜は「最悪コンビ」に変身した。
 当時学生だった内藤など大迷惑をこおむったらしい。その後何度か「最悪コンビ」を演じた。
 
 ジュニアユース選手権の出場を決めその報告にいった時「そうか、よくやった」喜んでくれ「おまえはチームの事だけ考え、後はおれと杉浦(主務)に任せろ」と言われた。さらに「よく俺の出番を作ってくれた」と妙な喜び方をされた。それから先はユニホームやウインドブレーカーを新調し、応援のバスを仕立てたり大張り切りであった。
 大会後「多少のミスがあった。今度はもっとうまくやるから、もう一度こういう機会を作れ」と言われた。
その後は良い所までは行くが、いま一歩で約束を果たせずにいる。
なんとか代表にもう一度活躍の場を提供したいと思っている。

 代表が野々山正人という人だったから今まで続けてこられた事だけは間違いない


『これからの高浜FCと自分』
 昔聞いた歌に「古い船を動かすのは古い水夫じゃないだろう、古い船を今動かすのは新しい水夫だろう」というのがある。歌と書いたが本当に歌だったのか、歌だとしたら誰が歌いどんなメロディーだったのか、実は皆目思い出せない。言葉として心に残った。
 思えば多分その頃の自分は新しい水夫だったんだろう。時が流れ高浜FCという船は古い船になった。古くなったといっても朽ち果てているわけではなくどこへでも航海出来る船だし、現在も大海原を航海中だ。
代表という船長の元に多くの仲間と精一杯漕いできたつもりだ。未知の航路を開拓したという自負もある。
 老いたとは思わないがもう新しい水夫でも無い。これから先の新しい海へのダイナミックな航海は若く新しい水夫の方が適しているだろう。古い水夫としてこれから出来ることは、ささやかな経験や知識を新しい水夫に伝えることではないのかと思う。
 幸いな事に高浜FCという船には、内藤、柴田、横山、四方堂、門脇、芝田らを筆頭に新しい水夫が数多くいて、今年成人になるという若者もいる。彼らの力によって高浜FCという船はこれからも終生とどまる事なく航海を続けることだろう。

 愚痴もいわず(?)好きなだけサッカーに没頭させてくれ、現在もそうさせてくれている妻に感謝しつつ・・・。                                  1995.12.20