S級の視線
                                    平田生雄

 第29回   【夢の扉


 子供の頃に憧れた「夢」は、忘れる事の無い「心の宝物」であり、仲間と語り合う時には必ず出て来る話題である。


 私の夢と憧れは「プロ野球=長嶋茂雄」であり、広島市民球場に初めて連れて行ってもらった時の[広島vs巨人]の感動と興奮は今でも覚えている。
 TVで観た選手達が、目前でプレーしているし投手の投げるボールの速さにも驚いたが、いとも簡単に打ち返す長嶋選手の打球の速さとハッスルプレーに魅せられたのである。
 当時の広島は「被爆の爪跡」も残っていたが、街は活気に溢れていて、野球小僧であった平田少年が「プロ野球選手」への憧れを強く抱いた「夢の序章」でもあった。(‘60年・10歳の夏)


 6年生の夏に、瀬戸内の島(故郷)に転校したことが「人生の転機」になるとは予想もしなかったが、野球小僧 ⇒ サッカー小僧に変身したのである。
 なんと、我家の二階に下宿していたのが中学サッカー部の顧問の渡部定彦先生で、島のスポーツ=サッカーだったのです。
 渡部先生は「サッカーの島」に生涯を捧げて文化勲章を受勲された、私達の「夢の扉」を開いて下さった恩師である。


 サッカーに魅せられた「次の扉」は高校時代に観た記録映画で‘66年W−Cup(ロンドン大会)の「Goal・Goal・Goal」で、身震いするような感動で、計三回も映画館に足を運んでしまった。
 高校卒業前に、日本ユース候補にノミネートされた事だけでも驚きましたが、代表に選出された時は喜びと驚きが交錯して「頭が真っ白」になってしまった。


 高校時代は進学校の為、部活は禁止されるし大学受験を終えた後の一次合宿では、厳しい練習と選考の「苦痛」から逃げ出したいと思ったが「死に物狂い」で乗り切るしかなかった。
 運良く最終選考に残り、帰郷した時に恩師が「中学生と一緒に練習してくれんか」と声を掛けて下さり後輩達と一緒に猛練習に励みましたが、率先して取り組む練習は楽しいと初めて感じた。


 旅立ちの日に「夢の扉は自分で開け、為せば成る。」と恩師の口癖で見送られた時に、吹っ切れたような気分で最終合宿に臨めた事を鮮明に覚えている。
 当時の私は、失う物は何も無いと思っていたので、代表になることより連日の練習が楽しくて充実していた。


 大学を卒業して、恩師に挨拶に伺った時に「平田は、良い指導者になれると思うが、広島に帰らんでもええから、サッカーに恩返しをしなさい。」
今でも忘れられない「言葉」である。
 多くの方々に、お世話になりっぱなしで多大な迷惑を掛けて、何の恩返しも出来ないが、せめて後世に「夢の扉」のお手伝いでも出来れば良いかなと思っています。

 
                               恩師の言葉「夢の扉」より