S級の視線
                                    平田生雄

 第36回   【 Freedam


 サッカーに限らずスポーツは生活に潤いをもたらしてくれるものであり、スポーツを楽しめる事は、心身共に健常であると言えます。
 プレーを、より楽しむ為には技術の向上と戦術の理解が必要であり、更に競技力を向上させる為には、体力や気力も大切な要素であるわけですが、今更それを語る必要も無いと思います。


 日本のサッカーは、少年サッカーの普及・育成活動と指導者育成やJ−リーグの発足等により世界のトップレベルに近づいた感が有りますが、物足りなさを感じるとしたら「ときめき」「ひらめき」「かがやき」の部分でしょうか。
 その部分に係わる「鍵」が【Freedam】ではなかろうかと思えるのである。



 習得のプロセスやプレーの中で、無形のエッセンスとも言える【Freedam】が必要不可欠であると感じている人は少なくない筈である。
日本における指導の形態は教えた事を忠実に守る事が美徳とされて来たし、和を重んじて厳しい練習を乗り越えた者には「道が開かれる」ようで、自分勝手なプレーはタブーであり、叱責されない為には余計な事をしなければ良しとされてきた。
 確かに身勝手な行動は「和を乱す」事にもなりかねないので「自由の履き違え」は控えるべきであろうと思います。
  しかし、「教え過ぎる貧しさ」を反省する指導者にも出会えないものである。


 確かに、知識も経験も豊富な指導者の影響力は計り知れないものであり、学ぶ側には心強い支えになるものです。
あえて言うなら日本における指導のFactorに【Freedam】という言葉さえ見当たらなかった時代も有ったようで、難しい事では無いのであるが見守る事や個性を生かす習慣が知らず知らずの内に失われるのも寂しいものである。
 これは、自分自身にも言える事でもあり「指導の楽しさは、教える事である」とばかりに、教え方を追求して来た経緯を振り返ると「自戒の念」に苛まれるのである。


 自由な発想や工夫する余地は「神聖な領域」であり認め合う事で、お互いの良さを共有できる利点もあるのです。
 芸術の世界では【Freedam】の領域が多く、手法や表現も自由奔放であるから個性と感性を研ぎ澄ました作品が生まれるのでしょうね。
一見、不要とも思えるかも知れませんが車のハンドルに「遊び」が有る事で事故も減り、快適に運転が出来るのです。
指導やプレーの中に芸術感覚とハンドルの「遊び」感覚が生かせるなら「ときめき」
「ひらめき」「かがやき」が育まれるかも知れませんね。


 日本サッカーの「夜明け」と言われた東京(‘64年)メキシコ(’68年)オリンピックで日本代表の活躍の礎を築かれたD.M.クラマー氏の教えを忠実に守り、日本サッカーリーグと公認指導者養成が発足したのであるが、皮肉にも長い低迷期を迎えたのは何故であろうか。

その原因を探っても明確な回答は得られないし、功罪を問う必要も無いと思う。
 クラマー氏は後年になって、子供達が木立の中でサッカー遊びに興じる姿を収録した映像を見せて「教える事より大切な物が有るものです。」と語られました。

 数週間にも及ぶ収録に費やした時間を「見守る楽しさ」は筆舌に尽くせなかったようであり映像から「ときめき」「ひらめき」「かがやき」を感じたのを鮮明に覚えている。


 そういえば、日本の公園や広場でサッカー遊びする姿は「あの頃は殆ど見られなかったのに、今では普通の光景である。」
遊び感覚だけでなく、年代・レベルを問わず習得やプレイする上で【自由な空間】が励みであり楽しみでも有るのです。
 指導育成の立場で言えば「伸びシロ」を残した指導を心掛けるとか、「教え込まないで工夫する時間と場を与えなさい」とか言われています。


そんな事にまで口を挟むから【Freedam】が定着していないと言われるのかも・・・

                        【生】のメモ「サッカーの疑問」より抜粋