S級の視線
                                    平田生雄

 第60回   小足球


 現在、世界的なブームになっているのがフットサルであり次世代のスポーツとして人気沸騰中であるが、サッカーが国技と言われる国では、ストリートサッカー・草サッカーのような遊びが生活に溶け込んでいて、ミニサッカーは最もポピュラーなスポーツと言われる所以でもある。


 中国ではFootball=足球(日本では蹴球)でありミニサッカー=小足球と表現されるようで、足球教本というサッカーの指導書にも小足球のルールやシステムが書かれています。


 ちなみに手元に有る[足球教本]は1970年に改訂出版されたもので近代サッカーの指導書というより基本的な事が書かれたものであるが、ミニサッカーを推奨している事が伺えるものであり、世界のミニサッカーを探ってみると楽しい発見が沢山あるものです。


 現在のフットサルに一番近いのが南米ブラジルで考案された [Futebol de Salon] であり、3号球の弾まないボールを使いますが、日本に普及させようと約30年前に、札幌大学の柴田監督とセルジオ越後やアデマール・マリーニョの在日ブラジル選手を中心に各地で講習会や大会を開催したものです。


 厳寒の北海道を連日奔り回って講習会を開催し、赤字覚悟でブラジルのNo.1チームを招聘して、サロンフットボール国際大会を開催した奇人・変人の一員であったのが懐かしく思えるし若かったと思う反面、今から思うと無謀なチャレンジをしていた事が誇りに思えるから不思議です。


 日本にミニサッカーを普及したのは [JFA] で無い事だけは確かであるが「誰が?何時頃?何故?」を知る人も少ないかも知れない。


 知った所で何も変らないものですが、何も無い所に風穴を開けた先人の蛮勇が日本の【小足球】を創り上げてきたのであり前述の3名に鍋島和夫(整形外科)や高橋信裕(某ボールメーカー:通称ノンチ)も加わり熱き心が日本の【小足球】に命を吹き込んだのである。


 某ボールメーカーにクレーコート用の弾まないボールや幼児用の痛くないソフトサッカーボールを製作して貰いましたが、型代や限定数量の為に費やした経費やエネルギーは半端なものではなかったようですし、今や世界一の品質を誇る某ボールメーカーのスタッフと昔話に花を咲かせる事も有るのですがサッカー馬鹿を通り越して執念を感じたものである。


 とりわけ、ミニサッカーの普及を影で支えてくれたノンチ(故人)の笑顔が今でも忘れられないし大阪に出張で来る度にホテルをキャンセルして我家で、夜を徹して「サッカー談義」をしたものである。


 「ミニサッカーは日本を変えるよ。絶対に変わるよ。」ノンチの口癖だった。


 少し湿っぽい四方山話になってしまいましたが、日本の【小足球】が産声をあげた頃の「歴史の一端」を紹介してみました。 (文中敬称略)