S級の視線
                                    平田生雄

 第65回    Renaissance


 この言葉を聞いて脳裏に浮かぶのは1969年に創部された枚方フットボールクラブ[以下 HFC と言う]の創始者である近江達先生です。


 「HFC」の記念誌に掲載された近江先生の【Renaissance】という言葉が鮮明に残っていたようで、関西の老舗フットボールクラブでありクラブチームの黎明期に数多くの話題を提供してくれた異色の存在でした。


 読売クラブや三菱養和のように施設の整ったクラブが日本にも誕生した事に驚きましたが町のクラブが互角に戦えるだけでなく光り輝いていた事に感嘆させられたものである。


 しかし、私は[HFC]が異色であるとかユニークというより「クラブチームとは、かく有るべし」と思っていましたので近江先生やサッカー好きの子供達が必要なエッセンスを伸び伸びと磨き表現するスタイルが、特別な手法を凝らして創り上げたものでは無く自然流に思えたのである。


 私の師でもあるセルジオ越後氏も「日本にもやっと町のクラブチームが誕生したね。」と笑いながら語った時に日本の夜明けは近いと感じたのも事実である。


 「南米には、こんなクラブチームはゴロゴロしている。」かも知れないが、当時の[HFC]には個性的な逸材がゴロゴロしていたようであり潜在能力を引き出してくれる場所が有ったから他とは違う選手が育ったとも言えるのです。


 当時の[HFC]は「狭いながらも楽しい我が家」と思える狭いグラウンドで技を磨き色々な事にチャレンジする事で個性や創造力が育まれたようで南米にも類の無い日本独自の南米流が誕生したのである。


 しかし、当時の日本におけるサッカーの現状は「日出ずる国」に夜明けが来る気配さえ見当たらなかったと言っても過言ではないのです。


 近江先生は【Renaissance】を「日本の夜明けの為に」とか「日本のサッカー革命の為に」と問いかけたようであるが当時は 笛吹けど○○踊らず だったようで、今なら誰もが判るような「明快な指針=近江達のサッカーノート」に辿り着くには紆余曲折が有ったようであり暗黒の時代だったのかも知れません。


 我々が世界史で習った【Renaissance】も長い歴史の中では[瞬時の一コマ]としか理解されなかったようですが後世になって計り知れない有形無形の財産として脈々と受け継がれてきたようです。


 あの時代に進取の気象で築き上げた[HFC]と近江達氏の【Renaissance】が後世に受け継がれて欲しいと願うのは私だけでは無い筈でスポーツが文化であり芸術であるならば日本のサッカー界に【Renaissance】が訪れると信じて止まないのである。


 末尾になりましたが関西の老舗クラブである[HFC]が崩壊の危機を乗り越えて不死鳥の如く蘇えった事に近江イズムと【Renaissance】の英知は失われていないと嬉しく思いました。


 そして、その英知を継承しているのは高浜FCのみならず多くの指導者が恩恵に預っているものと思います。