S級の視線
                                    平田生雄

 第80回    恩 師


 私が生まれ育ったのは瀬戸内の小島であるが「サッカーの島・似島」とNHK全国放送された事も有りますが現在は過疎の島と化して中学校の男子生徒がイレブンに満たなくて廃部を余儀なくされてしまったのは残念である。


 周囲12kmの小島に有る似島中学校に渡部定彦先生が赴任されたのが「サッカーの島・似島」の歴史の始まりである。


 戦時中(第一次世界大戦)にドイツ軍の捕虜が似島に有った海軍の検疫所でフースバル(フットボール)を楽しんでいたようでグラウンドにはゴールとペンデル(※)も残されていたのです。

 (※ ボールを紐で吊るしてヘディング等のトレーニングに用いる器具。)


 渡部先生は国学院大学(卒)で国語の教員と神社の神主もされていて仁王様のように大きくて威厳がありましたので島の人々からも尊敬されていました。


 私は両親が料理屋を 広島市 内で営んでいたので小学生の頃は野球小僧であったが小学校6年生の時に似島に転校して中学生になると男子生徒の大半はサッカー部に入るのである。


 島での生活はサッカーと勉強以外は自然と向き合って生活している感じで私の人生最初の転機であったように思います。


 サッカーの練習はとても厳しくて春夏秋冬を問わず暗くならなければ終わらないので何度辞めようかと思ったのは私だけでは無い筈であるが、辞めると弱虫の烙印を押されてしまうのである。


 練習に明け暮れる毎日であるが試合で 広島市 内に行けるのが嬉しくて勝てば次に試合が出来るから練習にも熱が入るしレギュラー争いも激しくなるのです。


 三年間に公式戦で負けたのは新人戦の決勝戦の一度だけで勝ち負けを超越して自分達の技術を磨く事や質を高めていく楽しみが芽生えてくるのです。


 周りを見ろ・考えながら動け・パスをつなげ・トラップは体の真ん中で・挑戦しなさい・工夫しなさい・仲間を信じなさいetc.


 今では当然の事だよと言われそうですが半世紀前に、それを言い続けた指導者の下で学べた事が私の人生の転機になるとは思いも寄らなかったのである。


 先生の要求はとどまる事を知らないようで「為せば成る・・・。」が口癖でした。


 人それぞれ恩師と呼べる方が居られると思いますが似島に人生を捧げて下さった渡部定彦先生が居なければ「サッカーの島も無ければ今の私も無かった・・。」と思うし、会う度に「生よ、元気にしとるか?サッカーに恩返ししなさいよ。」と笑顔で励まして下さる先生がいるのです。


 定彦先生は[齢]傘寿を越されても益々お元気で我々は足元にも及ばないようであるが次世代の子供達にサッカーの楽しさや喜びを伝え続ける事で微力ながら恩返しになればと思っている。


 叙勲(文化勲章)されたお祝いの席で「わたしの宝は勲章よりもサッカーを通じて育てた島の子供達です。」心から恩師と呼べる人は渡部定彦先生をおいて他に居ないのである。


 ありがとうございます。